子供のいじめ問題の現状についてです。いじめ問題は、昔から無かったわけではないのですし、これからも、人が人をいじめるという行為は無くならないと思います。とすれば今の社会が特徴的に持っているところは何かを考えようと思います。何かスッキリした答えも出すというより、この世の中からいじめで苦しむ子供が一人でも減ればいいと思っています。塾経営でもやはり、いじめの問題と向かい合わないといけない場面も多々あります。現場では私のスタンスはいじめに対しては厳しく対処するやり方でやってきました。
いじめられる方も悪い?
もう15年も前の話です。まだ、私がテレビを見ていた頃(今は一切みません。)です。
あのころも、いじめまっさかり、たしかある中学校で、葬式ごっこで死人にされ、クラスメイトからからかわれ、こともあろうに担任までその悪ふざけに加担し、そのいじめの対象になった子が自殺した事件の前後くらいです。
テレビニュース番組で評論家、有識者らが「いじめ問題」についてまじめな議論をしていました。
まあ、今回も、通り一遍等の内容だろうな!と思っていた矢先、ある評論家の参加者がが「いじめ、問題はいじめる子のことばかりに焦点をあてているが、実際いじめられる子も悪いんです。」
他参加者も特に、反論無し。
まあこんなテレビの場は何の意味も期待もしてはいなかったのですが、「何を感じて、この人は今まで生きて来たんだ」と思ったことがあります。
この発言者のような、高学歴な秀才には、この「いじめ問題」の深刻さがなにも分かっていません。
いじめ問題の深刻さ。
いつの時代もいじめはありました。
これからもなくならないのでしょう。
今の時代は、いじめ問題が深刻化していることです。
いじめられて、つらいおもい、いやな思いをした。
そんな時、いじめられた子にも原因はあるときもあるでしょう。
ですが、今に時代、いじめが問題化しているのは、いじめられて、一生こころの傷を負ってしまう子、登校拒否、引きこもり、自殺、先日の事件の様なナイフで殺人という様な何か解決策を考えなければ、どうにもならない所まで来ています。
「いじめられた子にも責任がある」なんて悠長なことは言ってられません。
いじめ問題で、常日頃感じるのが学校の先生、担任の人間力のなさです。
勉強ばかりしすぎて、人格がひ弱になったのでしょうか。
はっきりいって、クラスのいじめっ子の方が、よほどしたたかな気がします。
いじめ問題の解決法。
いじめ問題の解決法についてです。
いままさに、いじめでお子さんが苦しんでいる様なお父さん、お母さんがいらしたら、参考にして頂ければと思います。
塾経営者の観点で、いじめ問題を書いてみます。
他人をいじめるという行為は、人の持つ、劣等感、妬み、嫉妬などが左右されます。
いじめ行為をやっても何も感じない、恥にも思わないひとは多々います。
もう一段「魂のレベル」を上げないといけないようです。
また、そのような人は社会に出れば、同じ「魂のレベル」の人と、引き寄せあうので、友人、にしても結婚にしても、良いめぐり逢いはきたいできないでしょう。
例えば、結婚で、何度か失敗した女性は、「私、男運がないんです。」なんて良く言いますが、男女の巡り合わせだって運だけではありません。
いじめを恥じて生きている様なひとは、確実に幸せの階段を上っているし、必然的にそういう人と巡り合います。
実際「私、男運がないんです。」みたいに言っている人はもっと、自分の波動を上げなきゃ何度やっても同じ結果がついてきます。
いじめを恥ずかしいという意識。
いじめを恥ずかしいという意識も自然と持てるかどうかです。
まず、子供のいじめの話に、入る前に、私たち、日本人の大人がしっかり「いじめ」は恥ずかしい行いで、そんな行為をする人は、他人でも自分自身でも許せないと明確に意識することです。
そして社会的コンセンサスをしっかり築きあげ子育てや地域のこども、自分の子供が通う学校の生徒にも毅然とした意識を示せるかです。
本来学校の先生が、率先してお願いしたいことですが、今の教師は一部を除いて、人格的にそこまで望めない人がほとんどです。
人生の背中を子供に見せる。
幸せを追い求める人生の背中を子供に見せることが大事です。
いじめ、蔑み、軽蔑、ねたみ、このような心を抱いて生きていると同じような波動も持つ人。
そんな人の日々の出来事は、幸せ感は感じないでしょうし、ひいてはそんなどろにまみれた運命しか、そのような人の将来には用意されていません。
たとえ一時上昇気流にのったかの様に見えても長続きしません。
そうです。人間は自分が考えた通りの自分になります。
そして、今の生き方一つ一つが、将来の自分をきめています。
他人をいじめるという行為は、幸せの上り列車には乗れていません。
はやく、不幸行の下り列車から降りなければなりません。
運命というなの列車は各駅停車です。
釈迦の「蓮の花の教え」のとおり、例え、今が泥にまみれて居ても、やがて、泥から顔を出して、可憐な華をさかせる心もちこそが、幸せ行きの登り列車に乗ることです。
このことを、大人自らが悟り、我が子に、教えなければ、この不幸な「いじめ問題」の連鎖は止まりません。
これからも、いじめの犠牲になって、自殺する子供、引きこもる子供はたくさん出るでしょう。
子供の社会は、大人社会の縮図でもあります。
いわば社会の犠牲者でもあります。大人は「人生の幸せ道」を自ら悟り子供に伝える義務があります。
子供の教育の原点に戻りましょう。
もう一度、子供の教育の原点に戻りましょう。
特に、子供を持つお母さんは聞いてください。
以前紹介した元、松本市の教育委員長であった大塚貢先生も講演で仰っていました。
問題を起こす生徒の両親を呼ぶと、大抵父親より母親が主導権をとっている家庭が多い。
そして母親の言う言葉が「私は、あなたをこんな子に育てたつもりはない、お母さんははずかしい」。
それに対し問題生徒は「うるせえ、このくそばばあ、だまってろ」。
私の周りにもはよくある風景です。
あなたはどう感じますか。
このおかあさんは自分のことしか、もはや考えられない人間ではないでしょうか。
先ほどのお母さんの言葉、自己弁護、しいて言えば自己中心的。
こちらも言いたくなります。そんなんだから、その通りの子育ての結果が、忠実に出てますねと。
そしてお父さんは、無言。
もちろんお母さんが家庭で威張るのはかってです。
であれば、かつてのお父さんの役割、「人の道、男の道、女の生き方の美徳」を教えてあげてください。
子育ての結果は、その通りにでますよ。
シングルマザーで頑張っているお母さんは、しっかりお父さん役やっている人結構おおいとおもいます。
片親のお子さんは、とびきり良い子に育つか、とびきり不良になるかの両極です。
とびきり良い子に育ったお母さんて、しっかり、お父さん役もやってます。
そして、世の中のお父さん、今一度、夢や人生の高き志を思い出して、我が子に叩き込んでください。
遠慮なんていらない。魂と魂のぶつかり合いなんです。子供を育てるって。
学校の先生がもっと影響力を持つ。
子供のいじめ問題は、子供のいじめの場合、学校での場合が多いので中心は学校でのいじめについてになります。
この場合、親が我が子のいじめを把握できない場合も多く、その分事態を深刻化させてしまう場合も多いと思います。
できれば学校の先生がもっと影響力をもっていればと思います。
いじめが問題化したとき、感じるのが、学校の先生の存在感です。
例えば、担任が自分のクラスでいじめの気配を少しでも感じたならば、どれだけ、クラスの生徒に影響力を及ぼせられるかが問題です。
大抵、いじめが事件化して、世間にさらされると、ほとんどの先生が、いかに責任を逃れられるかしか考えていない感じがします。
いじめ問題があったのを知っていても、ばれない間は公表しなかったり、知らなかったふりをしたりする傾向があります。
日本文化には「恥を知る」という考えがあります。
「恥」など感じる心の退化した先生が多いようです。
あるいは、生まれてこのかた「恥」を知ることなど教育されてこなかったか。
しかしこれでは、クラスの生徒に影響力など及ぼせないだろうし、何かあれば、すぐ自己保身に走ってしまうでしょう。
クラスの現場を管理する責任者としての自覚。
担任教諭にはクラスの現場を管理する責任者としての自覚が必要です。
もし、はっきり特定はできていないが、どうもいじめがありそうだとクラスの現場責任者である担任が感じた時です。
その時どれだけ、いじめに対する思いを生徒ひとりひとりの心に刻めるかです。
つまり、クラス内のいじめはいじめ当事者のいじめてい生徒と、いじめられている生徒だけの問題にしないということです。
担任としてどれだけいじめに対する決意を伝えられるかです。
担任の立場でも、教師としても、一人に人間としても、いじめは、いかに人として恥ずべき行為である。
自分はいじめを絶対許さないし、この命に代えてもいじめに立ち向かうと、本気でクラス全員を前にしてまず宣言することです。
当然いじめ当事者らしき生徒も、本気の先生の顔から目をそらしながら、担任の本気度を知るでしょう。
これは、私の経験上からいってかなりの抑止力になります。
大人としての人間力。
いじめの撲滅には大人としての人間力が必要です。
生徒は、学校内でも、人間力のある先生には一目置くし、従います。
一方人間力の低い先生には、見透かしたように下にみます。
はっきりいって勉強が教えられるだけでは、学校の先生は、まともに務まりません。
つまり、先生の資質は、小学校であれば、小学生。中学校であれば中学生。
はるかに先生よりは未熟で人生経験も少ない生徒という人間の人間力より、当然高くなくてなりません。
そして、もう一つの必須要素がどれだけ本気になれるかです。
人間力に勝った大人が、本気で子供に、対応するとき「気迫」が現れます。
なかなかその気迫に、たち向かってくるほどの子供はめったにいません。
もし、先生に、生徒を心服させるだけの人間力がないと感じるのであれば、これからでも身に付けられる方法は、いくらでもあります。
クラス担任が教科インストラクターでなく、真の教育者であれば、そのクラスにいじめは起きにくいし、起きても、しっかり対処できるます。
これほどまでのいじめ問題は起きないと思います。
いじめっこの手綱をつける。
現役の塾経営者、通称「塾長」が今回も「子供のいじめ」について書いています。
子供のいじめ場合、大人間のいじめと大きく違うところは、舞台が学校、通学路なので逃げ場がありません。
そこで、助けを担任にもとめて、担任にその能力が無い場合、いじめられる子供にとって、地獄の始まりです。
これは、かなり、深刻な状況です。
先生は、いじめっこの手綱をいかにつけるかが大切です。
「いじめ問題」に関しては、親も、学校の先生も、鋭いセンサーも持っていないとならない場合も多々あります。
生徒間にも上下関係はありますし、親だってこどもの、表情から何かの異変を気づいてあげる必要があります。
教師の人間力を私は問題に挙げました。
人間力は人としての総合力です。
人それぞれでいいのですが、結果として、生徒の手綱をとれるかどうかです。
例えば、大学を出て、それ以外なにも経験しないで、いきなりあの学校の教育現場で、教師としてのキャリヤを積んで、次第にベテラン教師になっていく。
それは、それでいいんだけれども何か物足りない気がします。
たとえば、いじめ問題にある教師が遭遇するとします。
その教師はそのとき何歳であろうと、今までの人生で、他人に本気で、何かを訴えたり、お願いしたりしたことが有るかどうかです。
この経験の有るなしは、かなり大きな要素だと思います。
一般社会であれば相手に応じて、どういうスタンスで説得するか、必然的に学べます。
ですが、学校の教師は、いきなり担任になったときから、学級王国の王様、指導者です。
そのとき、等身大の自分以上の虚像を生徒たちに演じてしまうことがあります。
そうなると、とかく、「いじめ」の様な面倒な問題になると逃げ越しになってしまいます。
逃げ腰の後に来るのは自己保身です。
この負のスパイラルに自分を追い込んでしまうと典型的「無責任先生」誕生です。
かつては大きな夢と希望を抱いて教育学部にすすみ、金八先生のような先生を理想にして教師になったはずなのに。
不良生徒の問題。
こどものいじめ問題で、すこす見方を変える必要があるのが不良生徒の問題です。
いじめにもいろいろな状況のものがあり、ごく普通ぽい生徒が集団で一人をいじめる陰湿型もあります。
例えば、公立中学では、将来の職業で言えば、医者もサラリーマンも公務員も将来のチンピラもやくざも混合してクラスができます。
ですので、不良生徒がグループ化してが、ある子を標的にするいじめも多くおこります。
この場合大概「カツアゲ」等のチンピラ顔負けの行為に及びます。
さて、この俗に言う不良たちの手綱をどうとるかですが、もはや、秀才教員では、無理な感じがします。
私立中学から一流大学を出て教員になったような秀才経歴の先生は、不良生徒との間合いの取りかたもわかりません。
ましてら、その前に、彼らを理解しようとしないで、真っ先に拒否反応がでます。
すると不良生徒たちも絶対になつきません。
不良生徒が当事者のいじめ問題に、このような秀才先生が遭遇したらかなり、いじめられている生徒は不幸な結果になります。
不良生徒の手綱を付けるのも人間力です。
不良生徒は言い方は悪いですが犬に似ています。
先生がまず「俺はお前たちを偏見で見ないでできるだけわかってやるからな」という目つきで接します。
そうして、自分たちと少しでも同じ匂いを感じたときだけ心を開き、先生の言う事をききます。
だから、秀才先生には無理なんです。
なにせ犬には、どんな理屈も通用しませんから。そうです本能でいきているのだから。
中学生刺殺事件について。
学校でいじめにあい、先生の対応が機能しない場合、いじめられた子は、恥ずかしいということもあって、親に言えない事も有ります。
日頃から、親は子供の成績だけでなく、敏感なセンサーで子供の異変に気付いてあげる必要あると思います。
以前あった中学生間のの刺殺事件もいじめが背景にあり学校側も認識していたようです。
この事件も、今のいじめ社会の問題の象徴のようなきがします。
中学生刺殺事件とは、埼玉県所沢市の中学生が同級生を刺した刺殺事件のことです。
不幸なのは、殺した生徒も殺された生徒も、もはや取り返しのつかない結果になったことです。
真相ははっきりしないので、そこには触れませんが、気になったのは、いつもながらに学校がわと、教育委員会の発表です。
いじめの事は、事件当初、なにも公表しませんでした。
いつもながらの保身しか、頭にない対応でしょう。
これでは普段生徒に、嘘は言うな。正直になれなんて言葉は空虚に聞こえます。
いつもながらにいい加減にしてほしいと感じます。
次に、殺された中学生の母親のコメントの「犯人が許せない」と、繰り返し言っています。
日本語は言霊のこもる言葉だけに被害者の親の痛みは、計り知れません。
ですが加害者は犯人なのか?と。
なにか、だまされて、連れ込まれて、見知らぬ人間に殺されたような、殺伐とした現代社会特有の意識を感じます。
人間は、常にそれをとりまく、袖触れ合う仲から始まって、さらに深い関係を人間社会のなかで縁ができていく今回の事件は、その縁のなかで起きたのではないでしょうか。
いじめに対する親の対応。
いじめに対する親の対応は、どんなことが望まれるでしょうか。
子供のいじめは、逃げ場がなくなることが多々あり、いじめられている子にとっては、深刻になる場合が多いです。
ましてや、例えば恐喝が始まったら、もう、その金額に上限はありません。
いじめる側に温情などありません。逆らえば暴力が待っています。
親は、我が子がいじめられていて学校にいじめ、対処できる能力が無いのであれば、子供に無理に学校に行かせないで欲しいと思います。
あるいは、自分自身が学校についていって、監視してもいいでしょう。
いじめは「立派な犯罪」という断固たる意識をもつべきです。
なんなら、クラスに乗り込んで、いじめっ子を含めたクラスのまえで、教壇から、魂の訴えてもいいでしょう。
本来、担任がやる事だが、脳力がないのだから、代わりにやればいいのです。
学校側は当然に阻止してきますが、それで学校の覚悟も少しは決まります。
大人が本気になったらどんなに怖いかを生徒にも見せてやるべきです。
そして、我が子を、命がけで守ってください。
私の言う「命がけは」いまの平和な時代の、政治家がよくつかう飾り言葉ではありません。
文字通り命をかけます。
結局、私が一番言いたいことは、いじめられている人間がどんなに、苦しくて、追い詰められて、逃げ場もなく、怖くて、絶望的な状況にありことです。
だから、時には、自分の命を自ら断つという選択肢を、選んでしまう場合もあります。
テレビ出演したあるコメンテーターのひとこと「いじめられる方にも悪いところがある」みたいなズレた発言でこの問題を霧のかなたに追いやらないで欲しいし、問題の次元がだいぶずれている感じがします。
いじめられる方が悪いような次元のいじめは私はなんら問題にしていません。
今、私たちが問題にすべきは、いじめられる子の悲惨な状況です。
子供のいじめが、あなたの身近に存在したなら、大人として、人間としての本気度を出していじめられている子を救ってあげなければなりません。
そして、いじめている子が、もうはずかしくてたまらない状況に追い込めばいい。
それが、本人たちの為にもなります。
塾でのあるエピソード。
私の塾での実際にあった、いじめに関するエピソードです。
塾で実際におきた事件を1つ紹介します。
中学3年生のある男の子が一年ほど前からうちの塾に来ました。
成績は、あまりよくなかったが相撲部で県大会を目指しているような元気のいい子でした。
塾に入る動機もすもうの強い高校に進学希望の為でした。
ある日、その子の表情の異変から本人から聞き出した内容では、学校でいじめられているとのことでした。
もうすでに、金銭もいくらか渡しているような状況でした。
翌日昼間、私は、単身学校に乗り込み担任、学年主任、校長と相対し、いじめの存在の有り無しの認識を問いただしました。
学校側はだいたいの相手はわかっていたようで、しっかり、学校として対処するように伝えたのです。
学校側の対応が、いじめ問題にたいして、あまり感情も動かさない事務的な受け止め方なことに不安感がよぎりました。
おまけに何度も、「この件は、部外には内密にお願します。」の繰り返し。
最後のわかれ際にも、この体裁を気にした言葉。
私は、校長くらいは「二度と、いじめ、喝上げは私の目の黒いうちはさせません」位の覇気と決意を期待していたのですが。
私にとって、この学校の先生は、単なる、くたびれたオッサンにしか思われません。
理想が伝わってきません、教育者としての。
それから、さらに面白い話に。
学年主任が、A君をいじめているのは、学校でも暴れ者のふたりで、この間も、そのうちの一人が教室内をあばれまわって、ものを壊したとのこと。
その、二人が言うことには、「A君の通っている塾へ行く話をしていました。ひょっとして、そちらの塾ではないですか?だいじょうぶでしょうか。」と私に言いました。
私は、こう答えました。「私はなにも困りませんので、それより、今日約束したことを必ず守って下さい。今後もいじめの話がA君からでたら、その時は、私も覚悟がありますから」と答えました。
そして、10日程あとに、そのいじめっ子生徒が、別々ですが、母親と一緒にきました。
うちの塾へ。
もちろん、即入塾OK。
なるほで、学校でも、先生が手をやかされ、相撲部県大会を目指すA君をいじめるだけのことは確かにあります。
ですが、ここからが、人間力の勝負です。
その後二人の心が開いたのを見計らって私は二人に命令しました。
そのままの言葉をかきます。「いいか、良く聞け。お前らが今後Aをいじめたときは、それは俺の対してしたことと同じと俺はみなす。その時は、俺はお前らを絶対に許さんぞ」
そして、もう一言、「今度は、お前ら二人がAを守る用心棒になれ!」
そして、その二人は半年間うちの塾に高校受験まで通い無事進学しました。
もちろんただに一度も塾であばれたり、私をこまらせたり、A君をいじめることもありませんでした。
おそらく、学校では、こういう子らは、まともに見てもらえません。
一人の人間として接してあげたことが、よほどうれしかったんでしょう。
まとめ。
先ほどの紹介したエピソードですが、実際は、うちの塾で働いてもらっている塾講師でもなかなか、こんな人間力はありません。
ましてや、学校の先生の人生経験はせますぎます。
ある、私立中学では新卒の教員を採用したら、2年間ほど出入りの教材販売店とかに出向させて、営業の仕事の経験をつませまる学校があります。
物を売る仕事、営業職はひとの心をつかむには、そして人間力をつけるには良い方法です。
逆にいえば、教科書1冊さえ売ったことがない人間に人間力を求めても無理でしょう。
今は学校では体罰は原則禁止ですが、まだ80年代90年代の話で、その時20歳30代の先生が生徒に体罰を加えるまではいいんですが、生徒にケガをさせてしまう問題が頻発しました。
今まで、ケンカも、他人をなぐったこともなく、教師としての殴り方しらないんです。
殴りかたも、叱り方も、ほめ方も、夢のもたせかたも、生きる知恵も、ものの売り方も、すべて総合したもが私の言っている人間力です。
学校の先生でも、もちろん日々勉強を怠らず、前向きな生き方でそういうレベルにたっする先生はたくさんいらっしゃいます。
ですが、教師は当たり、外れで考えたら子供がかわいそうです。
外れ先生の場合は、親がしっかりわが子を守るしかありません。
むかし、多少やんちゃしたひとなら、そのときの気分を思い出し、教養があるひとなら、知恵を絞ってあらゆる子供をまもる手段を考えてください。
学校をとびこえていきなり警察でもOKです。
いじめっっこに「ただじゃすまないぞ」ってビビらせればいいわけです。
今回は「子供のいじめ問題の現状について。」というテーマでお送りしました。
最後までご覧いただきありがとうございました。
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