子供に人生観をどう伝えるかです。今の子供は、人生観、つまり「どういう生き方をするか」について親から伝えられていない子がほとんどでしょう。現代っこは心の栄養が飢餓状態の子が多いと思うのですが、その原因の一つが、褒めてもらえていないこと。そして、もう一つが、人生観について、つまりどう生きるかについて、教わってもらえていない現実があると思います。
人生観を教えるのは学校か家庭か。
確かに学校で、勉強から生活面のしつけから、人生観のことまでしっかり教育してもらえれば、これほど良いことは無いでしょう。
ですが期待はしても実際には無理です。
やはり、学校にお任せでは、結局いまの子供たちのように誰からも教わらないことになってしまいます。
私は親が教えるのが、やはり確実で良いかと思います。
さてそんな前提で考えた時、親のあなたは大切な我が子に自分自身の人生観を、しっかり育み持つことをどう伝えますか。
物質主義のはかなさ。
子育てにおいて物質主義だけで育てて、深い穴に落ちてしまった例を一つ紹介します。
ある家庭の話です。お父さんは、一流大学をでて、一部上場の一流企業で働き、40代で課長に昇進して、年収も額面1000万は超えています。
ですが技術系ということもあり、なかなか忙しく子供との対話も普段できません。
ただ、我が子にも頑張って一流企業に入れば自分みたいに、ひとより上の生活が保障されるから子供にも、勉強をしっかりやらせます。
塾にもいかせます。日本社会には一般的な「知の再生産」と俗にいわれる現象です。
裕福なので教育費も十分確保できます。そして、物質主義そのものを目標をかかげ、その子供は勉強をがんばります。
つまりいつの間にか人生の目標はお父さんと同じ程度の豊かさです。
そして、一流大学、一流企業、娘なら高収入の相手との結婚。
別に一見すると何もわるくないのですが、ただ単に物質信仰の人生にしてしまうとリスクもあります。
我が子が少しでもコースから外れようとすれば親はパニックになり、子供も結果が上手くいかないでコースからずれてしまった時、人生が終わったかの絶望感に支配されます。
このこの小さい時から洗脳された物質主義的人生観は周囲のなんのアドバイスも時にはブロックしてしまいます。
そうです何かが違っていたのです。
今、なぜ子供に人生観が必要なのか。
今現にお子さんがいるかたも、そうでない方も、もし、自分に子供がいたなら何らかの人生観を子供に与えるとすればどんなことを伝えたいとおもうでしょうか。
子供が、成長していく段階で、学校でも家庭でも人生観を与えてやれないとしたら問題でしょう。
必ずあたえるべきだと思います。
人格を形成していく段階では教育は必要です。
そんななかで、学校という教育機関は昔ほど頼りにならなくなりました。
家庭では、両親がいれば、協力して作戦を練って、伝えればいいし、母子家庭、父子家庭では、欠けた親の分まで一人二役演じればいいわけです。
片親家庭の場合、私の経験上、とびきりいい子に育つか、とびきり悪に育つかの両極端になる傾向があります。
というのも、いい子になれなかった家庭では、親が働くこと、生きる事に精いっぱいで人生観を与えてやれなかったかもしれません。
逆にとびきりいい子に育った家庭では、親のひたむきに生きる姿を目の当たりにして、時に親も自分の果たせていない人生の夢を子供に人生観という形を変えて伝えてきたにでしょう。
学校の先生の質の変遷。
教師の質もだいぶ変わったと思います。
昔は今の国立大の教育学部の前身の高等師範学校に進学して先生になりました。
つの部落で一人か二人位の狭き門で実際優秀でした。
大学進学が限られている時代に使命感をもって高等教育を受けたひとたちです。
そして、何よりの人間としてのいい意味でのプライドがありました。
実は、この「人間としての誇り」こそが、人生の話を語るとき必要ではないでしょうか?
そして80年代の頃だったか、「でもしか先生」という言葉も生まれました。
そんなに優秀でなくても先生になれるようになりました。
私の塾にも教員採用前の数年間だけ「教員の卵」を預かっても来たんですが、時々感じるのが、ひと昔まえなら、とうてい先生にはなれなかっただろうなと感じるひとも多くいました。
いわば、「他人に人の道を説く」スケールが無いような感じがするし、教養面でも、例えば「中学の社会の先生」志望の若者は、英語、数学全くできない。
さりとて社会科目の専門性がそれほど高い訳でもない。
例えばそのレベルでは、社会の先生でも自分の受け持つクラスの生徒に他教科のアドバイスをすることもできない。
それで、先生やっていいんだろうかなんて人も多々いました。
もちろん私の持論では教師に最も必要とされるのは人としての人格です。
年齢からいってもまだそのような人格は備わっていません。
子供には、心のよりどころが必要。
日本人は、変わった民族で宗教を信仰している人がすくなく、信仰心を持った人は少数派です。
日本人の悪いところで、少数派に対しては宗教に限らず偏見の目で見たりします。
あるいは、ある新興宗教のように、反社会的犯罪を犯す組織の存在もあって、自己防衛本能で避けたりします。
そして洗脳されるのを極度に恐れたりします。
結果として真に信仰心を持つ人は少数です。
そんなんだから、国際人なんて自分では気取っても新約聖書と旧約聖書の違いもしりません。
いくら、英語が堪能でも欧米人にとっては町工場のオヤジ同然です。
こんなズレた宗教観なんで、心のよりどころがないひとも結構多い社会でもあります。
宗教の信仰心があれば、その宗教の教えで、人生観を語るのも一般的です。
ハリウッド映画みてるとよくそんなシーンありますよね。
信じる神様がいないならいないで、なにか、「生きる信条」をもたないと外国人にも理解されません。
私は、特定の宗教はありませんが、宗教をこころから信仰している友人はけっこういます。
いっさい、偏見はありませんし、よく、人生観を語りあいます。
もちろん、洗脳されるなんて恐怖はかけらもありません。
彼らは、たくさん考えていますね。
多くの普通の日本人が思考停止状態に陥っているのとは違い。
道ずれ殺人の本質。
最近の子供たちを見ていると、今が十分過ぎるほど満たされているせいか、今日一日を楽しめればいいという子供が多い気がします。
例えば私は、塾にくる子には、必ず、読書をすすめます。
ですが将来に自分の心の貯金のために読書するよりは、今、楽しいゲームをやって、アニメを見て過ごす、その日暮らしの子供がほとんどです。
言葉は、悪いですが、家庭においてペットの犬と、人間の子供を同じ様に育てている家庭も多いきがします。
少し前の新幹線の車内の事件でも、道ずれ殺人事件が増えています。
そしたら、だれぞやが、「道ずれにしないで勝手に一人で死ね」とテレビでコメントしました。
そしたら最近メディアで、目立ってきたF氏が「犯罪者の真理を考えたら、その発言は逆効果だから、言わないで」というまた驚きの発言。
それは、言うなと言うのが無理でしょう。
まあそれは置いておいて、あの道ずれ殺人の人間の正体ってあなたはどんな人間だと思いますか。
そうです。不幸になるべくしてなった必然の人生を送った成れの果てです。
それぞれの事件でそれぞれの多少もっともらしい犯罪にいたった理由は聞こえてきますが、先ほどのペットと同じ育てかたをすると、あのような道ずれ殺人人間がどんどん増えます。
つまり、生まれてこのかた、なにかあればすべてひとのせいにして、目の前にある、当たり前に「感謝」する心を教えられずに、ペットの犬のように育てられたモンスターでしょ。
だから、あのF氏がいうなと言ってもそれは無理な相談です。
子供らしからぬ傲慢な子供。
日本古来の武道ー 日本には、剣道、柔道、合気道があります。
西洋のスポーツと違い勝っても敗者に対し頭を下げます。
今でも精神性が高く、礼で始まり、礼で終わる子供に人生観を与えるのに非常に有効ではないかと考えます。
ただ、この、武道でも、精神がしっかり、伴わないと生きる凶器になります。
特に、武術の空手をならった、小学生が、得意げにその腕前を友達に使うのですが何か違っています。
しっかり、精神教育しないと、ちびっ子ウェポンになりますね。
今、学校の体罰禁止で子供天下になっています。
まあ、ケンカもろくにしたことない教師が生徒に体罰を加えたら結果、ケガさせなる事件が多発しているんで仕様はありません。
もう体罰はダメな世の中でしょうが、これを逆手に取る生徒も結構います。
体罰不要論も世の中の主流です。
私の塾では、家庭で心のしつけができていない動物と同程度の生徒には、たまに体罰もします。
私は、体罰は時には必要だと今でも思っています。
なぜなら、人生観を与えられず育てられ、子供らしからぬ傲慢なこども。
非常に子供本人にも不幸なことで、人間としてしっかり、導いてやることは親の義務だと思うからです。
人生観を子供にどう与えるか。
親の持つ人生観をどう教えるか、あるいは子供に自分の「個人」としての人生観を養うことをどう教えるか。
子供にとって親という存在は特別なものです。
親の持つ人生の価値観を子供の年齢まで落として理解させることは大切なことです。
普通言葉で教えますが、何か一緒の体験をとおして、習い事を通してでも構いません。
言葉が一番ストレートですが、子供の成長に応じて、伝える言葉も変えていきます。
習い事の場合、例えば剣道であれば、やはり、親も剣道の教えを理解しそれを人生レベルの生き方として、子供に教える必要があります。
これは親が剣道を知らなくてもできます。
最後に、言葉なしで親の生き様を見せる。つまり「親の背中を見せる」方法は、かなり親にとって大変です。
理想と実態が一致している必要があります。
親の価値観の押しつけは問題か。
先ほどの話は親の人生の価値観のおしつけになり問題ではないか、という意見もあると思います。
その、弊害が全くないとは言いませんが、人生観をなにを語らない育て方よりはるかに健全です。
人生を語らずば、あなたの家でかっているペット同然の扱い「飼育」同然です。
「守破離」という言葉があります。
これは、何かを習得するとき、最初は師匠の教えを充実に覚え込みます。
この期間は人間で言えば足腰を鍛える期間、しっかり「守」の期間が長いほど、その習い事は大成します。
「破」は、やがて、その大切な教えを自ら破るときが来ます。
必ず来ます。そして「離」は、「守」の基本と「破」で自分の個と融合させたあと、その人独自の「大家」に育てます。
人生観もそれと似ています。
人生観を育む重要性を教える。
この場合、「人として生きる大切さ」という大上段の方向性とともに、それを育てる小さな価値観「パーツ的な教訓」をたくさん提供してあげてください。
決して、押し付けないというスタンスはまたこれすばらしい事です。
亡くなった俳優の石原裕次郎、兄の元東京都知事の石原慎太郎みたいな自由人でスケールの大きなひとに育つかもしれません。
いずれにせよ避けたいのが、人生観についてなにも語ってあげないことです。
人生観て「人としてどう生きるか」の学びですから。
人生観をしっかり語り育てられた子供が成人したとき、例え、どんなに人生に行き詰まろうと道ずれ殺人など決してしないと思います。
「京都アニメ」放火では、20代のうら若い女性の犠牲者もいて、妖精の様な美しい肌が焼けただれて亡くなっていった様相は想像を絶するものがあります。
はやく、この間違えてしまった、私たち日本人の魂が回帰するよう願いながら、亡くなったかたの冥福を祈ります。
まとめ。
今回は「人生観を子供にどう与えるか!」というテーマでお送りしました。
最後までご覧いただきありがとうございました。
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