心の豊かな子供について考える。

心の豊かな子供について考える。 教育
心の豊かな子供について考える。

今の社会は、生きていくことに人間が疲れ果てているのか、幼少期から、豊かな心を持たなかったのかとかく、色々な場面でギクシャクすることが多い気がします。子供を心の豊かな人間に育てるには、どうすればいいのでしょうか。

心が豊かな人。

「心が豊かな人」は、あなたの周りでも必ずいると思います。

「心が豊かな人」を一言で表現しても少し無理があり、実際に感じとるものでしょう。

ただ、一側面で表現すれば、例えば心に厚みがあって、様々な場面で多様性をもった考えができている様な人とも言えます。

そして心の豊かな人は、あふれんばかりの感性の持ち主です。

もっとわかり易く言えば心が貧弱なひとの真逆をイメージすればぴんと来るかも入れません。

物質的豊かさの代償として失ったもの。


私たち日本人は物質的豊かさの代償として失ったものがあります。


今の世の中が、人間にとって生きづらく、知らないうちにストレスが溜まっている様な感じをもっている人も多いと思います。

何か漠然と、心のよりどころを求めている様で、人間関係はとかく、うまくかみ合わず、誤解も多く生まれます。

一人一人を見ていると決して悪い人はいないのに社会集団でとらえると、何とも冷たくて無味乾燥な感じの社会と感じます。

例えば、「いじめ問題」も集団化して問題が重大化されます。

このような現実に直面しているのは、やはり、私たちが失ったものの一つに、「心の豊かさ」があると思います。

物質的豊かさの代償として、「心の豊かさ」を失ったのかもしれません。

そうは言っても、この物があふれて、日々便利になる時代はもう誰にも止められません。

自分だけ山奥に籠るなら別ですが。

であるなら、この物のあふれた時代でも、心の豊かさを失わない生き方、そして、子供たちにも心の豊かさを持った大人になる教育が大事になると思います。

命がテーマの授業。

心の豊かさについてです。心の豊かな人は、時に私たちに、心からの感動を与えてくれます。

以下は、はそんな生き方を見せてくれた方々を紹介します。


この話題はテレビでも取り上げられたので、御存じの方も多いかもしれません。

私も今でもその、ドキュメント番組を鮮明の覚えています。

神奈川県茅ケ崎市の浜之郷小学校の当時の校長先生大瀬敏昭校長の話です。

1999年に胃がんの手術をして、その後3年後には癌が腸に転移、もはや医師からも余命が少ないことを告げられました。

その後も点滴を下げた姿で、小学校高学年の生徒に向かい「命の授業」をこなった話です。

しかも、亡くなる2週間前まで、教室で授業をされました。

具体的には2003年の12月24日の終業式まで登校され、翌年1月3日に亡くなりました。

大瀬先生はその「命の授業」で例えば絵本を使ったり、あるいは学校で飼っているヤギの母子を例に挙げて独特の授業を行いました。

そこでは命には限りがあること、そして親から子へ受け継いでいくこと、自殺は自分の尊厳を辱めることなどを、教えるというよりは、話しかけて伝える感じの生徒と同じ目線にたった授業をしました。

おそらく、生涯の職業である教諭として、あるいは人としての使命感がこの命の授業を、衰える体力を振り絞って死ぬ間際まで支えたのだと思います。

自分が死んでこの世を去るとき、何か子供たちにしてあげたいという感性は、多くの人に感動を与えてくれました。

この話は、私が塾を初めて間もないころの事だったので私にも少なからない影響を与えてくれました。

おそらく、大瀬先生は、子供にしっかり向き合って、教える事を生涯楽しんでこられたかただろうと推察されまさに「心の豊かさ」を感じました。

病が育んだ心の豊かさ。

もう一人は、若くして夭折した棋士村山聖さんです。

村山さんは、羽生善治さんと、歳も同じで、羽生さんのライバルとして期待されながらわずか28歳で他界されました。

幼少のときからネフローゼという難病にかかられていてその病気が村山さんに独特の感性を与えることになったんだろうと思います。

プロ棋士になり、四段に昇段したとき、米長邦雄棋士が、雑誌のインタビューに伺ったときの話です。

米長棋士が「新四段の抱負は」と問うと村山さんは「棋士を辞めることです」と返したそうです。

不審に思い米長棋士が「棋士を辞めたら君はどうするんだ?」と聞くと「私は、詰め将棋作って暮らして行きたい。私は、相手の王将を詰ますことが嫌いなんです。」と返答しました。

唖然とした米長棋士が「君、それ正気か?」と訊ねると「私は、王様を詰めたり物を切ったり殺したり殺したりということが嫌いなのです。」

「私は今まで、花を切ったことが一度もありません。爪を切ったこともないのです。髪を切るのも嫌なのです。」

この、村山さんの命に対する独特の感性は、実は5歳の時から難病にかかり、常に死と隣りあわせの人生だったのです。

もちろん、普通の学校にも通えず、目が覚めると隣のベットに寝ていた友達が死んでいるような体験も多々あったようです。

そして、プロとして得た対局料もある慈善団体に寄付していたとのことです。

そして、わずか28歳でこの世を去ります。

こんな大きなハンディを背負っていても、なにか、凛とした気丈さ、そしてたとえ小さな一見取るに足らないと思える命でも、それを貴ぶ心の豊かさを感じました。

そして、なにか、及びもつかない一人の人間の崇高さを感じ、改めて、自分も甘えてはいられないと決意を新たにした思い出があります。

感動体験が心の豊かさを増す。

以上紹介した二人のひとを例に出したのは、心の豊かさの側面として、その人の感情量の多さがあると思ったからです。

その感情量の多さは、行動とか言動に現れた場合、周りの人にも好感、感動を与えてくれます。


心の豊かさを左右する要素として、その人のもつただ単に知識の量には無関係で、やはり、どれだけの豊かな感性を磨いてきたかです。

知識にしてもその知識をどれだけ自身の生きる上でのこだわりにできるかだと思います。

感動体験の多さがが心の豊かさを増すのではないでしょうか。

では具体的に豊かな感性はどうすれば身に着くでしょうか。

やはり、それは幼少の時からどれだけ自分自身で感動体験を積んだかという事だと思います。

そして、その感動を得るためにはどれだけ汗を流してきたかということになると思います。

例えば、現代であれば、空腹なら、食堂、コンビ二などのいけば簡単に空腹を満たせます。

なんの感動も起きないでしょう。

ところが。食料事情の悪いところで、皆で協力して、食材を集め、火を起こして煮炊きして火加減や味下限も試行錯誤しながらやっとありつけた食事であれば感動します。

三蔵法師も徒歩ではるばる今の中国からインドまで怖い妖怪に危険な目にあわされながらもたどりつき、経典を手にしたときは、それは、それは感動でしたでしょう。

ですが、今の世に飛行機でインドに言って経典をてにしても感動はありません。

例えていえば海水は塩辛いと知識でそっていても、実際海水をなめてみてはじめてその塩辛さが実感できます。

いかに多くの感動体験を積むかですが、現代社会では、汗をながして何かを得るという経験がしずらい社会でもあります。

現代科学はとことん便利さを追求して、今後もこの急激な進歩はは止まることありません。

汗を流す体験をいかに与えるか。

汗を流す体験をいかにするかです。


現代社会の便利さに浸かってしまう事で、心の豊かさが失われてしまうとすれば、子供には、汗を流す機会を積極的に与えてあげる必要があると思います。

一番いいのが、普段日常でありがたく利用しているものを一定期間使わないことがいいと思います。

例えば、車が普段の移動手段であれば、自転車、徒歩に変えてみる。

2日間スマホ、テレビ、パソコンは使用しないとか、徐々に不便さにならすことを生活に取り込み、その延長線上で感動が味わえるようなプランを立てればいいと思います。

最初は、こんなことバカらしいという思いも出るでしょうが次第に子供たちに別の尺度が心に芽生えます。

実際、現代社会は、自殺者、うつ病患者が異常なほど多い社会でもあります。

この物に満たされた社会では、感動する機会がないと、次第に無気力な心が襲ってくる危険があります。

感動を与えたあげた数だけ「心の豊かさを増す」という使命感でどうか不便な日常に挑戦してみて下さい。

等身大の生き方をしていて、愛嬌がある人間。

ある人に接して、この人は心が豊かだなと感じるとき、何がそう感じさせるかは、人それぞれです。

ただ共通する点として、「等身大の生き方をしていて、愛嬌がある。」点です。

等身大というのは、何かに追われるような生き方でなく自由感じで、愛嬌というのは、物事を、笑い、楽しみに変えるのが上手いという意味です。

心を豊かにする体験。

損をした体験の多い人。

損をした体験の多い人です。


少なくても私の周りで心の豊かな人は、損をした体験の多い人ほど心が豊かです。

これは、少し説明が必要で、世の中で損した体験のある人が皆心が豊かというわけではありません。

損をしても、それを乗り越える術を知っている人という意味です。

誰しも生きていれば損もします。

例えば、一例を挙げれば車を運転していれば、対向者のドライバーに運転技量がなく、ぶつからなくていい状況でも事故は起きます。

俗にいうもらい事故です。当然現行法ではこちらにも過失がつきます。

そんなとき、相手をののしり、運命をのろい、不機嫌で周りにも八つ当たりし、くやしがり、感情が落ち着いてきたら、自分はやっぱりついてないといつまでも落ち込むひとは結構います。

一方でその損が、投資の失敗であれ、詐欺であれ、従業員の採用ミスであれ、すべては「人生を生きるうえでのコスト」ととらえる考え方もあります。

誰もうらまず、運命ものろわず、不機嫌にもならず、平然と「○○の件で○○円払った」と平然といえる。

一切損をしたくないと考えるより損を人生のコストと考えます。

商売で言えば必要経費みたいな考えです。

こんな悟りを持ったひとは、損の分だけ心が豊かになります。

だからこそ、損を病み嫌う打算的人間に心の豊かな人は一人としていません。

苦しい思いの体験。

苦しい思いの体験の場合です。


この、苦しい思い、つらい体験は、「心の豊かな人」になる最大の要素です。

例えば、前々回紹介した「命の授業」の大瀬先生にしても、ネフローゼという難病だった村山聖棋士にしても苦しい思いが、魂を揺さぶったのだと思います。

今の大人は、子供たちに大変な思いをさせようとすると、すぐかばってしまいます。

「かわいそうだから」「こんなことしたことないから」「こんなことしたって意味ないから」

理由はだいたいこんな風です。

しかし、かわいそうでも意味がなくもありません。

その苦しみがどれだけ「心の豊かさ」を育てるか分かっていないのです。

物質主義にどっぷり浸かりきってしまった今の現代人の魂では理解不能なんです。

楽は正義、苦しみは悪という価値観が蔓延してしまっています。

苦労の数だけ人間は成長します。

実際、脳科学的に見ても楽して、漫然とした状態では、人間の大人度を左右する大脳の「前頭前野」は働いていません。

働かせなければ発達しません。成長しません。大人になれません。

そして、苦しみをあじわった人の最大の収穫は、ひとの痛みがわかる人間に成長できることです。

例えばビジネスの世界でも、心ある有能なビジネスパーソンは大事なパートナーを選ぶとき、挫折、失敗を体験したことが無いひととは組まないものです。

挫折、失敗の苦しみを体験してこそ、神様は成長というご褒美を私たちにGIFTしてくれます。

ぺらい人格の子供。

薄っぺらい人格の子供が増えています。

今の子供は友達同士でも軽い関係を望みます。

例えば、友達から何か深刻な悩みを打ち明けられても相談されたほうの友達はどうしていいかもわからず、どんな言葉を掛けていいかも分かりません。

だから、親友と言ってもとりたててどうでもいいようなアイドルの話とかで、本当に信頼関係を友人として築いていない場合も多々あります。

そんな状況でSNSなどでちょっとした誤解から大きな亀裂をはらむ問題に発展してしまいます。

つまり性格が薄っぺらい人格になってしまっているんです。

なぜ、薄っぺらい人格の子供が育ってしまうのでしょうか。


それは、簡単な話で、人生経験がまだ浅いからです。

さらに、その短い人生で、あまやかされ、もまれる事もありません。

そんな薄っぺらい人格では、到底他人のなやみなど聞いてあげられるはずはありません。

他人の行動、言動も自分のおさない脳の尺度でしかとらえられず、誤解、疑念などが、親友同士でも起きてしまいます。

そして、それがエスカレートしたのが例えば佐世保の小学5年の女子の首切り殺害事件です。

人格が薄っぺらいという社会現象はいたるところで問題化しています。

読書こそ最良の心の栄養。

読書こそ最良の心の栄養で、人生経験の少なさ、苦労を味わっていないまだ未熟な大人度の子供の最良の心の栄養です。


今の子供の前記の傾向は子供が読書をしなくなったという事実に関係してます。

読書により、自分が実体験しなくても多くの経験にまさる知見を与えてくれます。

あるいは多面的考えかた、時に人生観までも形成してくれます。

全く別世界がそこにはあります。

たとえば、私が子供に読ませたい本の中に三浦綾子の「泥流地帯」があります。

北海道が舞台で、貧しくても心豊かに生き抜く家族の姿が描かれています。

当然襲った十勝岳の噴火で、すべてを失う、そんな中でも命の限り生き抜く姿は、私たちの今の社会では求めるに難しい「心の栄養」を与えてくれます。

そして、このような本から心の栄養をたっぷり受けて育った子の心は分厚く、他人の困難にも力になってあげられる弱いものを常にかばい、決しておごらず、まさに心の豊かな人に育っていきます。

私は入塾時には、読書を生徒にすすめます。

親にもいかにっ読書が大切かを説きます。

大抵は「うちの子は本が嫌いなんです。」「読めといっても言うこと聞きません」

まあ、子供と同レベルの親からのセリフに失望します。

他人の子じゃない、世界中で一番いとおしい我が子のことなのに。

なにか他人の子供のことを話しているようです。

親も幼稚なんです。まっとうな大人なら、言い訳、愚痴じゃあなく、子供に本をやませるにはどうするか、その場で腹をくくります。

そして、やはり、親に感性がないんです。

今何をすべきかの。

頭にあるのは、成績を上げる事だけ。

これが優先順位の第一番目。

成績なんて取るに足らないものなんですがね。

人格の伴わない人間が成績だけで世の中の中枢に組み込まれるとこれまた世の中の不幸です。

話を戻して読書についてですが、読書で読解力をつけることは、現代を生きる私たちはデジタル化されたネット社会での生きる力の養成の目的でも大切です

多くの情報から正しい情報を見極める力です。

これは論理的思考力だけでは身に付きません。

社会の現象を洞察する能力や優れた感、直感力を伴う必要があるからです。

それにはやはり活字で脳を鍛える読書が一番です。

まとめ。

今回は「心の豊かな子供について考える。」というテーマでお送りしました。

最後までご覧いただきありがとうございました。

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