打算的教育の弊害について。普通に私たち大人がこの世の中を生き抜いていくにも、ちょっと気を許すと付け込まれたりします。そんな難しい世の中で、つい意識していないと打算的な考えを子供に見せてしまいます。今回のテーマは私自身が一番子供の教育でこだわっている中の一つです。
物質主義の弊害。
打算とは損得です。
頭の中に損得しかない人間をあなたはどう感じるでしょうか?
何か人間性が欠けている印象があるでしょうか。
今の物質主義の社会が打算的考えを助長しています。
私たちは物、サービスに満たされた生活を送っています。
つい金銭的にも労力的にも割に合わないことは避けようとします。
知らず知らずのうちに損得てきな生き方をしてしまいがちです。
今の社会環境では、子供たちの対し大人が意識して損得だけで生きることの儚さをしっかり教え育んであげなければなりません。
損得だけで生きる打算的性格の人間ができあがってしまう危険があります。
ちょっと想像してみてください。身近でもそうでなくても、或いは歴史上の人物でも。
自己中心的に損得で生きている人間と、いつも周りの人間をきずかい、人間味があって、決して割のいい器用な生き方はしていない二つのタイプ。
後者の方が魅力的だし、親しくしたいですよね。
子供教育という面で打算的ではない生き方を教える事は、この物質主義の世の中であるからこそ重要ではないかと思います。
今と昔 の違い。
社会が変化して今と昔で物質主義とうい観点でみて、どのような違いがあるでしょうか。
ある女の子がいました。田舎で生まれ育ったその女の子は小学校1年の時から家から6kmある分校まで歩いて通います。
行きは下り道なので少女の足でも1時間ちょっとで学校に行けますが、帰りは登り道、どんなに頑張って歩いても1時間半はかかってしまいます。
途中からは学校に近い友達ともわかれて一人になってしまいます。
冬の日暮れの早いころ少し下校時間が遅くなる時は農業をやっている父親が歩いて途中まで迎えに来ることもありました。
この少女の様な話は昭和初期の頃まで普通にありました。
学校にいって毎日素晴らしいことが有るわけでもなかったでしょう。
それでも、この少女は学校にこんな苦労してまで、どうして行かなければならないんだろうなんて少しも疑問に思いません。
そこに学校があるから行く。それだけです。
損も得も意識のなかにはありません。
こんな大変な登下校でもこの子にはささやかな楽しみがありました。
朝家を出る時お母さんが小銭を手渡してくれます。下校の時、学校から1kmくらいの所に「よろずや」さんという商店がありそこで大きな飴玉を一つ買って口いっぱいにほおばって帰ります。
「飴が口のなかでなくなるまでには家に帰ろう。頑張ろう」
この「よろずや」さんからは山道なのでひたすら無心に家まで歩きます。
もうこんな不便は今の時代ちょっとありえません。
この時代は今の私たちが失ってしまいそうな何かがあるきがします。
子供に損得だけでない人生を教える 。
人間である以上、誰しも自分の損得を考えて日常を暮らしていると思います。
今の時代は、多少その大人の損得的な考えが目立っているのではないかと思います。
今述べている「打算的」という表現はなんなのかイメージはつかみにくいかもしれません。
打算的の反対は、ある程度人に優しくて、ある程度自分の時間を割いてでも他人の手助けをしてあげる。
そしてある程度自分より他人の事を優先して考える。
ある程度、ずるく生きるのは嫌いだ、ある程度お金以外に自分の生きがい、価値観を感じている様な人には全然問題ない話です。
このような人も大勢います。この人たちは損得だけではない人生を送っていると言えます。
ただ、傾向として、つい「打算的考え」を親が、そんな意図は無いにしても無意識のうちに、子供に打算的考えを、すりこんでしまう危険があります。
なぜなら、便利すぎる環境にいるからです。
だからこそ子供には損得だけでない人生を意識して教えることです。
大人が無意識で、子供にいってしまう言葉の影響を考えて接することが大切です。
世の中を生き抜いていくのは、それなりに大変です。
だから意識しないとつい損得でものを言ってしまいがちなことは、誰しも思い当たると思います。
ですから、日頃から子供との会話で、さきほどの無意識的に打算的価値観を植え付けないように意識すればいいと思います。
「損得、それだけじゃないよ!」親の心にときどき、こんな心のつぶやきがあれば十分です。
もちろん、親だってそれぞれ人生観が違います。
親の人生観を子供に伝えるのが基本です。
そのとき、子供が物事を考えるとき、「損、得」だけでなく、ちょっとそこに気持ち「感情」を添えた考えが出来るようにしてあげたいものです。
子供の将来について話す場合 。
例えば親が子供の将来について話す場合を例にあげます。
親が子供の将来について話す時、以下がよくある例です。
頑張って勉強して、いい高校、いい大学、いい会社に入る。
或いは医師、弁護士のように高い所得が期待できる職業を提案する。
つまり、将来裕福になるために勉強をがんばらせることです。
実際学習塾を経営していれば感じますが親も子供もこのような意識は強いと思います。
勉強に対する動機付けとして一般的です。
ここでちょっとこんな親子の会話を想像してみてください。
親が子供に勉強をすすめる動機が経済的豊かさだけだとしたらこうなります。
親「がんばって勉強しなさい。」
子「そうするとどうなるの?」
親「いい高校(進学校)に入っていい大学に行けるだろ」
子「そうするとどうなるの?」
親「給料の沢山もらえる大企業に就職できる。安定もしていて倒産もない。」
子「そのあとどうなるの」
親「給料が沢山もらえれば、車とか家とか外食とか人より贅沢が出来る」
子、それからどうなるの「会社をやめたあと年金もたくさんもらえる」
子「ふう~ん。それでどうなるの?」
親「それで終わりだそれがすばらしい、苦労もしなくてすむ」
子「そうなんだ楽ができるんだ」。
このような会話、つまり損得だけで親子の会話をすると、落ちがむなしい気もします。
この会話に少し人間として生きる「気持ち」「感情」のせるとぜんぜん違ってきます。
親「がんばって勉強すればいい会社にも入れるけどそれだけじゃない。人間の能力を磨けば、その会社で他人の役にたてる。お前が他人を幸せにした分だけお前は豊かになれるんだ」
子「ふううん、僕が勉強がんばることで、みんなを幸せにできるんだ。そして僕もその分いいことがあるんだ」
みたいなことを少しいい添えると全く違った会話の感じになります。
これは、たとえばの話でしたが、どんな場面でもすこし「気持ち」「感情」を言い添えるとだいぶ違ってくると感じて頂けたでしょう。
子供に主体的に生きる大切さを教える 。
「打算的考え」を親が、そんな意図は無いにしても無意識のうちに、子供にすりこんでしまう危険がることを言いました。
算的考えが全く悪いと言っているわけではありません。
打算的つまり損得、それだけの価値感では問題があると思います。
子供に損得だけでない人生を教えるべきです。
まず、大人が無意識で、子供にいってしまう言葉の影響を考えて接することが大切です。
世の中を生き抜いていくのは、それなりに大変ですから意識しないとつい損得でものを言ってしまいがちなことは、誰しも思い当たると思います。
ですから、日頃から子供との会話で、無意識的に打算的価値観を植え付けないように意識すればいいと思います。
「損得、それだけじゃないよ!」親の心にときどき、こんな心のつぶやきがあれば十分です。
例えば子供に将来の生活が裕福になれる様に教えるのは親として当たり前の行為です。
将来のための今の人生の時間を割いて勉強なりして大人になって豊かになる。
親なら当然そうさせたいでしょう。
私はそのサポートをする仕事を職業にしています。
そこで大切なのが、人生を主体性をもって生きることを教えることです。
先ほどの親子の会話の続編です。
最近子供がゲームにはまり勉強に身が入らない中学生の息子との会話。
親「最近、成績がよくないな、ちゃんとやっているのか?」
子「勉強おもしろくないよ!」
親「高い塾代はらってるんだ、ちゃんとやれ!」
子「塾なんていかなくてもいいよ!」
親「将来、フリーターでもやるのか、結婚もできんぞ」。
一方最近結婚を意識した彼氏のことを親に打ち明けた姉との会話。
姉「彼氏気に入ってくれた?」
親「性格は良さそうだが、高いお金はらって塾、高校、大学と金使ってきたのにあんなつまらん男を好きになったのか」
姉「好いひとだよ、私を必ず幸せにしてくれるよ」
親「おまえと学歴がつりあってないじゃないか、あれじゃあ高給なんて期待できんぞ」
何か違っているとあなたも感じたでしょう。
そうです。私たち親自体が日々の暮らしの中で、主体的に生きる事を止めてしまったんです。
それも無意識のうちに。
日々の暮らしは大変です。
金銭的余裕もないかもしれない。
自分の趣味の時間もないほど大変かもしれない。
そんな環境で私たち親が知らないうちに物質中心主義に陥ってしまっていることは無いでしょうか。
昔大好きだた尾崎豊というシンガーソングライターがいました。
彼が10代の時のうたで「17歳の地図」という歌があります。
そのなかで「何のために生きているのかわからなくなるよ。手を差し伸べてお前を求めないさこの町。どんな生き方になるにしても自分を捨てやしないさ!」という歌詞があります。
この年になるとこの歌詞の意味が痛いほどわかります。
人生がどれだけ理想とちがっても私たちには「何を思って生きるか」の自由だけは誰も奪うことはできません。
主体的にいきることは絶対やめてはいけないし、止めたら人間から霊長類ひと科の「ひと」という動物になりさがります。
子供に 価値観(主体性)を教えること 。
子供教育とは価値観(主体性)を教えることでもあります。
先ほどの親子の会話で親は楽に裕福に生きる最善の方法を子に教えました。
その為教育費という投資もしました。
ですが主体的に生きる考えをなんら教えてないんです。
あなたのお子さんが尾崎豊ほどの感性がもしなかったとしたら、勉強すれば裕福になれるというだけの物質主義的な教育は、自分が人としてどう生きるかがすっぽり抜けた教育になります。
子供はそれをそのまま受け入れる危険性があります。
そんな中での教育費は物質的価値を生み出すだけの愛のない打算的なただの金になってしまいます。
この日本社会も、子供教育は学校、塾などで、社会的に豊かな親は子供にも多くの教育費を使ういわば「知の再生産」が行われます。
ですが、子供がただ頑張れば「金持ち」になれるだけの動機付けでは、社会に対しての主体性はうまれません。
これでは、「知の再生産」は「物質主義」の再生産に成り下がってしまう恐れがあります。
そこに社会に対し主体性を持った生き方をすることを子供たちに教えるできでしょう。
便利な時代にさまよう魂。
冒頭書いた登下校に1時間以上もかけて山道を歩き学校へ通った少女。
学校に行っても冷暖房のない隙間風の入る校舎でとりたてて特別な教育が待っているわけではない。
ただそこに学校があるから行く。
ばからしいなんて少しも感じなかったでしょう。
あるいみでは、そのころの時代の方が、生きやすい時代だったかもしれません。
かたや、現代はどうでしょう。
今ほど便利で物質主義がはびこんでいる時代がすすむと、例えばうつ病の人がどんどん増えていきます。
不必要に他人にかかわることもなくなります。
駅の階段で足を踏みはずして骨折してうずくまっていても、知らぬ顔で通り過ぎて行きます。
公共の場で中学生が煙草を吸っていても見てみぬふりです。
へたに関わると損な時代なんです。
感性すら無機質になってしまいます。
しかし私たちの魂は「満たされない何か」をもとめてさまよいます。
それは、なんでしょうか?
それは物質主義の蔓延によって、失われていくものたちです。
少し、前にある認知症の老人が線路に入り込み電車にひかれ、その損害賠償を老々介護をしている老人の配偶者にJRの社長は請求し訴訟を起こしました。
数千万円とか、かなりの賠償請求でした。
JRが受けた損害をきっちり請求することがJRの株主への義務と思ったのでしょうか。
鉄道会社の経営者には合理主義しか頭にないのでしょうか。
鉄道会社は毎日を介護に疲れながらも精一杯ひたむきに生きている人たちに支えられているはずです。
そんな高額な賠償など到底そぐわない庶民を困らせ、みせしめる為でしょうか。
法的権利は、なにがなんでも主張しなければならなかったのでしょうか。
少なくともJRの社長は、他人の痛みなど感じない人なんでしょう。
この訴訟は最高裁まで持ち込まれ原告(JR)敗訴という法的判断が示されました。
社会的に地位の高い人にこそ求めたい使命感。
例えば、勉強のかなりできる子、この辺りは地方なので公立高校の地区トップ校、そのなかでも理数科が飛びぬけて勉強ができます。
その理数科の生徒の多くが国立大の医学部を目指します。
医者の子であれば、私立の医学部も行けますが、一般家庭で私立の医学部は学費がはらえません。
都会では東大をでて国家公務員のキャリアもあるんでしょうが地方では国立の医学部が多いのが実情で、この子らが将来の日本の医療を担っていくんでしょう。
たしかに勉強ができる。
じゃあどうしようかと言ったとき、「年収が高いのが医者で尊敬もされるし」みたいな思考も結構多くあります。
これは表現変えると「金、地位、名誉」にあこがれてるんです」です。
この全体の0.5%の勉強のできる子供だからこそ、損得でない「使命感」をしっかりもてるような教育がされてきたなら日本も変わるかもしれません。
使命感を持つことこそ、主体的に思考して生きる生き方として自然ではないでしょうか。
まとめ。
今回は「打算的教育は子供の心をむしばみます。」というテーマでお送りしました。
親が何気なく行う勉強をさせるときの動機付けが、結果として子供を物質主義的考えに陥らせることで、子供の心をむしばんでいるという内容でした。
その、対策としは、親がそれぞれ持っているであろう人として生きる価値観を伝え、主体的な生き方をすることを教えてあげることです。
最後までご覧いただきありがとうございました。
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