神戸市の東須磨小学校の教師のいじめの事件 を別記事で紹介しました。許しがたい所業をしでかした4人の虐め教師は、社会的にも法的にも厳しい制裁を受けるべきだと思いますが、少なくともいえる事は、あの4人を排除したところで、今の教師のレベルが上がることはないでしょう。あの問題教師は氷山の一角と考えると、誰が子供たちに「心の教育」をしなければいけないか?を改めて考えなければなりません。心の教育は親の責任で、しっかり叱ることが必要です。
子供の心の教育は親の責任。
子供の心の教育は親が責任も持って行う。
改めて言うまでもなく、子供の心の教育は親の責任です。
今の時代は、「非常識が常識」になってしまっていることが多々あります。
子育てに関しても、「将来あの子はモンスターになるな!」と感じさせられる親子も、塾を経営していると多々見受けられます。
ひどい例では、塾月謝の踏み倒し、もちろん子供にも分かります。
学校では、給食費の不払いが多く、彼らの理屈は、学校に行くんだから、子どもに、給食を食わせるのは当たり前」。
これだって子供にも当然知れます。
まさか、我が子を詐欺師か犯罪者の類にしたいのか、なんだかわかりません。
さて、そこまで、ズレてなくても、子供の教育は学校でしっかりしてもらえばいい、とお考えの親も結構多いのも事実です。
ですが、考えてみてください。
文科省まで、乗り出した神戸市東須磨小学校の「4人の虐め問題教師」も、世間では「許されざる悪党」ですが、一部の親、生徒(児童)には人気がありました。
例えば事件発覚後学校側が「保護者説明会」を実施したところ、親の中にも、あの4人の虐め教師をかばう親がいて、実名公表はやめてくれと依願した親もいたといいます。
実際生徒にも人気があったみたいで、逆にいえば、あの4人の虐め教師に、すっかりなついてしまった生徒、親がいるという事です。
私がなにが言いたいかというと、「いい先生」と思った教師が実際あの4人の「いじめ教師」だったら、心「心の教育」は、かけらも受けられていないでしょう。
逆に、悪い影響、例えば、「人を馬鹿にしたり」「立場の弱い人間をいたわらなかったり」など、楽しければいい、自分さえよければいい風な悪い影響を子供が受ける恐れがあります。
つまり、学校に「人間教育」を期待するには無理だという一例です。
品格の備わらない教師集団。
もうひとつ、今回の神戸市立東須磨小学校の虐め問題で感じたことで、あの学校長の、仁王美貴校長の2時間にも及ぶくらいの長い記者会見で感じたことです。
学校長たるものにふさわしい人相ではなく、かなり貧相で、人間としての品格がなく、言葉遣いも教育者らしからぬ「ら抜き言葉」を自然にしゃべります。
発言内容に合理性もなく、誠実さもなく終始「自己弁護」に徹し、いじめはの事実は最近認識した、など白々しい誰にも分る虚偽発言。
「もっと、私も職員室で被害教師に寄り添えば、良かった」と反省。
そうじゃなくて、加害教師たちに、全身全霊でもってして命かけても管理者として止めなかった責任を自覚すべきでしょう。
これで、校長の、仁王美貴氏は、当時55歳だという。
人生に向上心なく、生きて来た人間の典型でしょう。
とても、教育者とは思えません。
教育委員会の会見に臨んだ二人も、ひたすら会見の場で「筆記」。
もと教育者ならしっかり、目を据え、頭を上げ、背筋を伸ばし会見しなきゃとても、こちらも、子供の手本にはなりそうにありません。
結局、今の教師にもはや心の教育は期待したくても無理だといえます。
もちろん、まともな教師もいるが、大概そういう教師は、学校組織ではけむたがれて、理想を失い潰されていく。
そこで、改めて「心の教育」は親がしっかり行うという正論を再認識することが必要です。
例のいじめ教師の行動を考えてもどうして、あんな行為が出来るのだろうと、私に限らず、あなただって思われたでしょう。
本人たち曰く「面白いからやった」そうです。
これが、子育てするとき「心の教育」って何をどうすればいいの?と思った時大きなヒントになります。
あの虐め教師の彼ら、彼女らは、大変良い反面教師になります。
きっとあの4人は、中には、親が教師の家庭に育ったものもいるみたいですが、「心の教育」はされなかった結果でしょう。
それが「面白いからやった」です。
ある意味無邪気で単純ですが、年齢的にも立場的にも終わっています。
これが、教師でなく丸裸の人間であっても、「面白いからやった」の何が人として欠けているかなんです。
本人たちも責められるべきですが、育てた親にも責任があります。
ましてや、皮肉にも教師に育てられたあの女性の虐め教師は、一番いい反面教師です。
現代っ子の「叱られ弱さ」が意味するもの。
現代の子供は、学校でも、就職した職場、バイト先でもちょっと、厳しく叱られるともう精神的にまいってしまう傾向が顕著です。
泣き出したり、仕事であれば、やめてしまったりとにかく叱られることに弱い傾向があります。
ですから、例えば、職場で新人を教育しようと思っても、叱るなら辞められる覚悟がないとできません。
これは、小さい時から「叱られる」という事になれていないからでしょう。
親が我が子に本気で何か伝えたいとき「叱る」という行為は不可欠です。
この優しすぎる親たちの生み出した結果があの「今回の神戸市立東須磨小学校の虐め教師」みたいなモンスター人間の出現です。
叱るという行為は、厳しければ厳しいほど親子の信頼関係が不可欠です。
そして、「心の教育」には、「叱る」という行為が不可欠だと私は考えます。
「心の教育」には親の「喜怒哀楽」が大事ではないでしょうか。
子供に対して叱ることをいとわないことは大変大事なことです。
嫌われるのを怖がる親。
親の優しさの裏には、子供に嫌われたくないという考えをもっている親もいます。
つまり、好かれる親でいたいという動機で子供に接してしまうわけです。
これは、親の「心の貧弱さ」でもあります。
今親が子供に対して与えなければならないのは、「好かれるとか、嫌われるとか」とは次元の違うことがらです。
例え子供に嫌われたとしても「心の教育」は親としてやらねばならない使命感が必要です。
とにかく、子供の教育の「不作為」は子供の将来に重大な結果を招きます。
「学級崩壊」という現象 。
子供たちは、時代と共に変わってきています。
しかも、徐々に悪い方向に向かっている感じがしています。
その、結果として、小学生、中学生の同級生にたいする殺人、社会に出た若者の無差別殺人、いじめ問題、若者の自殺の増加など、次第に現象が表面化しています。
もう20年以上も時間をさかのぼったときの現象ですが「学級崩壊」という言葉が頻繁に使われ始めました。
小学校、中学校、高校で教師の授業が成り立たなくなるという現象です。
もはや、教師の生徒に対する統制が摂れず、生徒は好き勝手に騒いだり、席を離れたり、かってにトイレにいったり。
さらに、時間をさかのぼって1980年代を中心に吹き荒れた「校内暴力」です。
生徒同士はおろか、生徒が先生を殴るという行動が多発、学校によっては「警察」の介入が必要になるところもでました。
そして、このころから、成人式でも、新成人が会場で暴れまわるという事件もでてきました。
これらの流れをみても、この、半世紀の間、子供の教育という面では、間違った方向に向かってきたといえます。
そして、今もこの方向性を変える施策は全くとられていません。
子供を殺す親。
昨今の社会現象に親の子殺しがあります。
虐待や食べ物を与えなかったりして、子供を殺してしまう事件です。
最近では世間もあまりこの異常現象に反応しなくなりました。
ですが、まともな人間であればありえないことが今、頻繁に「事件」として起きています。
殺された子供にとっては、一番信じたいはずの親に、地獄の様な生活の末、短い生涯を終えなければならないのです。
どうすれば、救ってあげられるのでしょうか?
考えてみれば、子供の心がすさみ始めた1980年代の子供たちが、ちょうど父親、母親として子供を育てる時期です。
あの当時の、あの子供たちが子育てをして、その結果が今、問題としてでていると考えることもできます。
いつの時代も「うちの子に限って」と大半の親は思います。
テレビで報道されるのは特殊なケース、うちの子には無関係だと。
しかし、私はそうは感じません。
多くの子供と日頃接してみて、明らかに変化があります。
世の中の自然現象は「正規分布」曲線をとります。
この、心の教育の問題も、左が悪い結果、右側が良い結果そして中央に平均的なピークが現れますが、今起こっている現象はその真ん中の平均的ピークがかなり、悪い方向に寄ってしまっています。
ですから全体としては、事件になるのは一握りですが、その「悪」が増加しています。決して他人事ではありません。
子供から奪ってはいけない「遊ぶこと」。
子供から奪ってはいけないものについてです。
それは、幼少期から青年期まで言える事で「遊び」です。
幼児を観ればわかると思いますが、まさに、遊ぶのが仕事です。
子供は遊びの中から多くの事を学びます。
毎日、塾や習い事通いをさせて、子供から遊び時間を奪うのは、遊ぶことによって学ぶべき大切なものを学ぶ機会を奪ってしまうことになります。
子供は、まるで本能のように遊びます。
それが、親の価値観で言うと遊びは、なにも生産的でなく勉強とか習い事をしていることは肯定するが、段々遊ぶことに否定的になります。
ですが、子供が遊ぶことは、本能でもあります。
寝たりご飯を食べたりするほど自然なことで、遊ぶことで脳の発育をしています。
遊びが楽しければ楽しい程、脳の前頭前野は、快楽を感じ、前頭前野を刺激し「大人のこころ」を育んでいきます。
そして、昭和時代のまだ、テレビゲームもなかったころの子供たちの遊び方を思い出してみて下さい。
路地裏、公園の空き地、近くの川、場所さえあれば、自分たちで、遊びを考え出しました。
例えば空き地に空き缶が一つこれだけで「缶蹴りごっこ」ができます。
子供たちは、どん欲に遊びの快楽を追求し、どんどん新しい遊びを考え出します。
当時は、今の子供たちと違って、「作られた遊び」などありません。
これにより、右脳の分野である、想像力、発想力、ひらめきなどが磨かれこれが大人になってからの本当の「生きる力」になります。
さらに、何事にも感じる心「感性」が磨かれます。
「感性」が豊かだから、この時代の遊びっこやわんぱく小僧には今の子のように「生きる意味がわからない」などと、悩む子はいませんでした。
「感性」の量が違います。昔の子は。
当時の彼らに言わせれば、「生きる意味?難しいなあそれって。でも、きっとそのうち分かるよ」っていうでしょう。
つまり「生きている意味なんて、今わからなくても、こんな大事な事しっかり後にとっておこう」って。
それすら、遊びごころの感性なんです。
遊びをさせない代償は。
子供に対して高い目標を掲げ、例えば子供を一流大学に入れます。
そのため毎日塾通い、それを頭から否定するつもりはありません。
私も学習塾の経営者ですし。
逆に立場上、応援し励ます立場でもあります。
幸運なことにここは大都市ではないので、受験は高校受験から始まります。
ですから、大多数の子供は小学生までの間は遊べる環境があります。
あとは親の考え方です。
遊びを無駄と考える親や、しっかり遊ばせてあげたいと考える親と様々です。
しかし、小学校の時から遊びを奪ってしまうようなことは避けたいものです。
習い事も週に一度くらいにしてあとは遊ばせてあげて下さい。
遊びをやらないで、勉強一本やりの人間は、就職してからも、結果が出せなく失敗することが多く、その原因は「感」が悪い傾向があります。
外資系の様に能力主義の企業では、すぐに行き詰ってしまいます。
公務員なんかだとまだ生きていけるかもしれません。
小さいころから遊びを犠牲にして右脳中心の直感をけずられ、企業では結果も出せません。
今回の大切なテーマである「心を育てる教育」という点でも大きなデメリットが出てきてしまいます。
あらかじめ他者から造られた遊びではなく、自分たちでどんどん遊びを楽しくさせていく、そして、その過程で創造性が豊かになります。
その、大切な遊びが、いつしか、親の価値観で奪われてしまっている傾向があります。
昔の遊びが集団性を磨く。
昔の遊びのように造られた遊びでなく、自分たちの創造でする遊びは、より楽しくしようと工夫する過程で、必然的に一人や二人でなく、三人以上の複数の友達と誘いって遊ぶことが多くなります。
なぜならその方が楽しいからです。
そして、その複数人の遊びの中で、人間同士のかかわり方を、自然と学んでいきます。
楽しい遊びは、少年期までにしか身に付かない感性を磨きます。
そして、少年期に人としての基本的感性が備わったもの同士は、青年期以降、子供時代に直接遊びあったどうしか如何にかかわらず、心の絆を共有できる友達に発展させることができます。
人生で、一度や二度は普通であれば死にたい程の壁に突き当たることがあります。
その時、「心の支え」になってくれるような友達関係があれば、「自殺」などの選択肢はなくなるわけです。
現代人は、薄っぺらな、軽い友達関係を望む傾向があります。
話題は、昨日見たドラマの事、芸能ニュース、そんな中で、あまり重たい話などしても、相談されが側でも心が薄っぺらなので、どうしていいかわからない。
そんな、友達関係は、行動面でも、人間性に欠ける行動をしても、友達同士の歯止めをかけることもできません。
人間度の正規分布全体が悪い側にシフトしてしまい、今は悪いニュースが目立ているのも当然の現象かもしれません。
自己中心に突き進む社会。
「心の教育」に関する現代の問題点を探ってみると、「自己中心」に向かっているということです。
神戸市の東須磨小学校のいじめ教師問題で、先日いじめた当人たちのコメントが学校の説明会で、発表されましたがあの4人の「反省コメント」がいい例です。
あの文を、聞かされても何も伝わらないんです。
一見すると反省文ですが、まず、感じるのが、「自己弁護」です。
つまり「いいわけ」なんです。
そうです。自己中の人間は、常に、自分が一番かわいい行動をとります。
この4人の反省文でもそれが見え見えで憤慨さえします。
そして、自分の教師としての立場を保全したいから、生徒に対する、謝りの内容が次にきます。
その中でも、一人の男性教師は「不安と混乱を与えてしまったことに反省します。」こんな表現でしたが、自分を守りたい一心で浮かんだのがこんな、魂のこもっていない言葉です。
おそらく、この教師自身は自分の言葉に誠意がないことに気づく感性が生まれつきもてなかったのでしょう。
このレベルの人間が子供にどうして教育ができるでしょうか。
さらに40代の女性教師の反省文に至るともう、救いようがないでしょう。
人間として、あのような文章を出せるのは、まともな感性が全くありません。
あの女性教師は、親が教師一家ということもあり、かなり特異な環境で幼年期少年期を過ごしたのでしょう。
こののち、彼女がどれだけ神妙に生きようと、周囲に毒をまき散らして生きるような人生しかないでしょう。
ですが、今回の「心の教育」を考える時は、いい反面教師になります。
つまり世の中に役には少したつかもしれません。
ですが、被害にあった教師に対する、すまない気持を少しでも表したければ、誠心誠意謝罪し、自分で自分の身を処する覚悟が必要でしょう。
露骨な物質主義。
前章では「自己中心化」という切り口で、「心の教育」の不在、を述べましたが、「自己中心人間」は、他者の痛みがわかりません。
わからないというか感じません。
そして、その結果、心の絆を上手く築けず、ふと気づけば孤独感、虚無感にさいなまれ、ある人は、自殺という選択肢まで選んでしまいます。
私の、塾に通っている生徒にも、大人になったら、「お金持ちになる」「豪邸に住む」「金持ちと結婚する」など、裕福にあこがれる夢を持った子供は結構います。
それが動機付けで勉強を頑張ったり、塾に通っている子も普通にいます。
それ自体、自然なことで、何も悪い事ではありません。
むしろ自分の人生が金銭的に、物質的に豊かになる為に今を頑張るという子供たちの姿勢は共感すら覚えます。
では、何が問題か?というと、そこに親の「心の教育」がなければ、「お金持ちになりたい」それだけの価値観になってしまいます。
子供によっては、人を押しのければ、夢が自分に転がって来て達成すれば、優越感で他人をさげすむ。
次第に「自己中心」の性格が形成されていきます。
「心の教育」の欠如は、子供たちにも大きな「勘違い」をさせる結果にもなります。
物質主義に染まった親の何気ない言葉。
「心の教育」は、日頃から意識して、子供に対して行わないとつい何気なく出た言葉が、物質主義そのままだったりします。
私たちもずっぽりと物質主義の社会に染まってしまっているからです。
つい、「損得」という尺度で、物事を判断していまうのは、もはや日常的です。
友達の親の職業にも優劣をつけてみたり、お母さんは嫉妬、愚痴、悪口、陰口。
お父さんは自分の出世自慢「Aさんは、どこどこ株式会社の課長だから、うちの会社の係長級だから、自分より格が落ちるな」とか。
こんな、何気ない会話が日々子供たちに刻み込まれ、先ほど挙げた子供たちの「お金持ちになりたい」という夢、これは素晴らしい夢だけれども、それだけになってしまいます。
例えば豊かになったとして、その後に、何が来るのか、それ以外に何が大切なのか、何が必要なのかをしっかり教える。これが、「心の教育」なのでは、と思います。
まとめ。
子供が経済的に豊かになったその先に何が見えるのか。
心の教育を教えないまま、ひたすらに勉強に励んで遊ぶ時間や貴重な青春を楽しむ時間を犠牲にして豊かさを追いかけさせてもそのゴールが単に金銭的な豊かさであるのであれば、損得の価値観に浸ってしまいます。
子供のころから日々切磋琢磨してその先に見えるものは、将来社会に出て人の役に立ち、他人の幸福を願い、そしてその貢献した分だけ自分にも豊かさが返ってくるというということをしっかり教えるべきでしょう。
人の役にたち、他人の幸福を願うことの心を教えるのが心の教育です。
この部分に親の人生観が大きくかかわってきます。
今の学校の教師のレベルでは難しい部分でもあります。
子供の夢の到達点がただ「金持ちになること」のような子供への指導は、何か大切なものを失った人間に育ててしまう危険性があります。
今回は「心を育てる子育て方法とは」というテーマでお送りしました。
最後までご覧いただきありがとうございました。
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