神戸市立東須磨小学校の教師の「いじめ」事件について。

神戸市立東須磨小学校の教師の「いじめ」事件について。 教育
神戸市立東須磨小学校の教師の「いじめ」事件について。

神戸市の東須磨小学校の教師のいじめの事件が、世間の注目を浴びました。この事件ほどの子供に対する裏切りは無いでしょう。「いじめ」問題は、子供たちにとって命に係わる問題になるほど、深刻で、どう、学校内でのいじめを無くそうかとしている時、いじめを止めるはずの教師が率先して「いじめ」を行っていた事件でした。

理想を忘れ去った教師たち。

神戸市立東須磨小学校の教師の「いじめ」事件は、もう空いた口が塞がらないくらい呆れた事件でした。

何考えて教師やって来たんでしょうか、この人たちは。

厳しく言えば、人間のくずと言われても仕方ない腐った心の先生たちで、教えられる生徒も可哀そうでしょう。

まさしく、理想を忘れ去った教師たちでした。


私の周辺でも、理想を忘れ去った教師たちは、結構いるのは事実です。

この人たちは、「してはいけないこと」を何の罪の意識もなくしてのけます。

まさか、今後も、教師続けようと思っているとしたら、何か勘違いしてます。先t生という職業についての認識をです。

子供たちや世間にたいする裏切り、そして、犯罪(刑法犯)に対しては地獄を見る位の苦しみをもって「罪の贖い」をする必要があるということです。

こういう教師に共通しているのが、教師として、人としての「理想」も「誇り」もすべて忘れ去り何もないってことです。

ときには、そんな人たちが校長クラスまで昇進します。

教員と言う仕事は、給料を稼ぐだけの手段になってしまって、「おまえら恥を知れ」と言っても、もはや、本人たちに「恥」の心はないんでしょう。

しかも、事件が発覚したら、隠れたまま。

やったことの責任取れてないでしょう。これって生徒指導の「いろはのい」でしょう。

学校という組織の問題。

もっと大きな問題は学校という組織の問題があります。


神戸市立東須磨小学校の事件で、最も問題視すべきは、この教師間の「いじめ」問題に対し、校長も、教頭も他の30名以上はいるだろう教師たちが、何の「歯止め」にもなっていないことです。

校長、教頭は当然ながら管理責任を厳しく問われるべきだが、他の教師もいじめの問題で大きな課題でもある「見てみぬふり」をしていたことになります。

もちろん大人社会で「いじめ」があるのは事実だが、学校の教師の集団で「いじめ」が平気で許されていることも深刻です。

だだ一人の勇気ある行動も無かったのでしょうか。

もはや気概のある日本人はいないのでしょうか。

これが、教師の実態とすれば、今の日本社会の腐り具合の根が想像以上に深いかもしれません。

しかもその「いじめっぷり」が「激辛カレー無理やり食べさす、目に塗る、車の屋根に乗る、車内でこぼす、羽交い絞めにする。なんかとても大人の行動には思えず、精神年齢が「中学生以下レベル」です。

これじゃ、生徒も、教わることも何もなかったでしょう。この教師たちには。

中身が子供で、そして、毎度ながら無能教育委員会の職員が、魚のような表情で出て来て、原稿の棒読み。

目線は、常に下を向き、目も死んでいる。

元教育者とは到底思えない。

子供たちはね、あなた方の「心の言葉」をずっと待っているんですよ。大人を信じて。

加害教師の心の品格。



加害教師は事件発覚後の調査に対し、「悪意はなかった」「相手がいやがっていると思っていなかった」と言い訳をしていました。

ですが、動画を見る限り嘘だとわかります。

いじめられて、いやがって苦しんでいるのを楽しんで快感を得ている。

生徒指導のこれも「いろはのい」に嘘をついたらいけませんと、これじゃ、とても言える立場ではないでしょう。

まずは、正々堂々と自分の過ちを認め、世間に顔と名前をさらし、被害者にも許してもらえるまで謝罪し、「器物損壊」「暴行」「強要」罪にも該当しそうなので、法的にも罪をしっかり償い、前科ものの教師として一から出直す覚悟が必要でしょう。

犯してしまった罪をいかに償うかも人としての品格を語るとき大事なことです。

動画のいじめの中で、後輩教師に、「ボケ」とか「カス」とか人間の尊厳を奪う言葉を平気で使える人格みたいだが、教師として自分は何を教えられるのかよく考えることも必要でしょう。

教師は、吉田拓郎の歌「我が良き友よ」にもある様に、学生の家庭教師でも、私もそうだったが、子供に「人の道」と説いたものでした。

今、教師の職業にあるひとは、もう一度自問してほしいと思います。

「先生として、人の道を子供たちに説いてますか」

「先生としての使命は持ってますか」

もし、この二つがないのなら、すぐに、やめるべきでしょう。

この二つを心に抱いた先生なら、今回の様な「いじめ」に対し「見てみぬふり」は絶対出来ないはずです。

先生が損得で生きたら、子供たちにとって「裏切り」です。

「いじめ」に対し真剣に取り組む自覚。

教師はもう一度「いじめ」に対し真剣に取り組む自覚を、もってもらいたいと思います。


人間社会に「いじめ」はつきもので、いつの時代も無くならないでしょう。

昔で言えば「村八分」はいじめのいい例でしょう。

ですが、教師という職業を選んだ以上、世間一般の意識よりは「高い次元」で生きなければなりません。

神戸市立東須磨小学校問題はいじめた「4人の教師」だけの問題ではありません。

それを許す環境を作ってしまった教師全員の問題です。

そして、心を傷つけられた被害にあわれた教師の方には、再び立ち直って職場に復帰し、理想をもった教師になる事を願っています。

まとめ。

今回は「神戸市立東須磨小学校の教師の「いじめ」事件について。」というテーマでお送りしました。

最後までご覧いただきありがとうございました。

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